北沢図書出版

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『本の共和国』出版にいたるまで ~ 著者・金彦鎬氏のこと ~

2010年11月23日

舘 野  晳(翻訳家)


publish_news_book.jpg 北沢図書出版では、2011年の下半期に金彦鎬著『本の共和国』の刊行を予定している。このたび、この本の翻訳担当者であるわたしに、著者と本の内容の紹介を要請されたので、前宣伝を兼ねて「出版にいたるまで」を綴ってみることにした。
 北沢図書出版の刊行書リストをみると、これまでに韓国人の著者も、韓国を対象とする内容も見当たらない。また同社が急に「韓流」に染まったわけでもなさそうだ。だから「なぜ韓国のものを?」と疑問に思われる方もいるのではないか。けれども同社が、この『本の共和国』の刊行を決めるまでには、かなり長い「前史」があったのだ。そのあたりの事情を知る人はあまり多くはいないと思われるので、これまでの過程を紹介してみることにしたい。

 『本の共和国』の著者・金彦鎬氏は、韓国の中堅出版社「ハンギル社」の創立者であり代表者でもある。ハンギル社は主に人文書・児童書の出版を手掛けており、韓国では水準の高い出版社として認知度はとても高い。その代表者の金彦鎬氏は韓国の出版界のリーダーの一人であり、いくつもの要職を歴任してきた。日本の出版界も関係しているものとしては、「東アジア出版人会議」(日本・韓国・中国(香港)・台湾の出版社で構成)があるが、現在その代表役を務めている。
  その金氏は出版が本業だけに、いつも本のことが念頭を去らない人物である。まさに「本の虫」そのもので、東西古今の書物の収集にも余念がない。来日するたびに神田神保町で本を丹念に探しまわり、とりわけ北沢書店の書棚は詳しく点検するのが常である。そして貴重な洋書などを購入して帰国するのが慣わしになっている。
 
 とくに金氏はかねてウイリアム・モリスに執着し、コレクションの完成に情熱を傾け、チョーサーはじめ、モリスの編著書の相当数を集めてきた。それが高じて2008年、ソウル郊外のヘイリー文化芸術村に、小粒ながら「W・モリス美術館」を開設するまで漕ぎ着けた。蔵書は北沢書店からの購入品目のほかに、世界各地の書店などから収集したものである。こうして金氏は、韓国では少ないモリス・コレクターの一人として認定されるまでになった。好きな本のコレクションから本の博物館が生まれたという、今どき珍しいお話しである。
 こうして金氏は、北沢書店に出入りするうちに、北澤家の家族の皆さんと親しくお付き合いするようになり、そのうちのひとり恵美子さん(北沢図書出版代表)が、マリンバの優れた演奏者であることを知った。恵美子さんは仲間と組んで、しばしば国内外で演奏ツアーをされているという。これを知った金氏は、ぜひ韓国でも演奏会を開いてくださいと申し出た。金氏が「村長」である「ヘイリー文化芸術村」の「ハンギル・ブックハウス」には、コンサート用のホールがあり、現にそこで音楽会を開いている、という渡りに船の申し出だったのだ。
 そしてこの音楽会は2006年10月、金氏の尽力で実現を見たのである。日韓両国の音楽家の共演は成功し、ヘイリー村での文化交流の実績をひとつ増やした。翌年には、同じメンバーで東京での演奏会も挙行された。
 
 そして今春、金氏は来日した折に、北澤恵美子さんに1冊の本を贈呈した。自著の『本の共和国』である。金氏が編集者・出版社の代表として、歩んできた道を回顧し、これまでに接してきた著者たちとの出会いと本づくりの思い出を綴った内容だった。韓国民主化運動の象徴として尊敬されている方々、咸錫憲(宗教家)、尹伊桑(音楽家)、宋建鎬(言論)、李泳禧(国際政治)、李五徳(児童文学)、朴玄埰(経済学)、安炳茂(神学)、徐南同(神学)氏らをはじめ、ハンギル社で著書を出された方の、エピソードが次々と紹介されている。外国人著者としてもマルク・ブロック、塩野七生、ホブズボーム、堀田善衛氏らのこと証言されており、そのほか主要図書の思い出、関連行事、支援事業などについても触れている。
 ハンギル社の創立は1976年、まだ軍事政権時代だった。それから34年間の出版社の歴史は、抵抗と民主化闘争、そして民主化が段階的に進む時代と見事に重なり合っている。この本は出版社という視角を通じて、韓国現代史を理解するうえでも、最上のテキストとなるものだろう。
 このような内容の『本の共和国』だったので、北沢図書出版ではさっそく来年の刊行リストに加えた。金彦鎬氏は、最初刊行を固辞されていたが、日本で韓国の出版活動の一面を知っていただく機会になるのであれば、ということで最終的には翻訳出版を許諾された。これまで日本では、韓国出版界のことを伝える書物は極めて少なく、まして韓国出版人の著書の刊行となると、2・3点を数えるだけだったからである。
 だが、本書は、隣国の出版社の歩んできた歴史だけでなく、その背景を成す韓国社会、とりわけ韓国文化界を知るうえでも、また金彦鎬氏というたぐいまれな人物像を知るうえでも、読者にとってありがたい贈り物なのである。
  
  翻訳はいま始まったばかりで、完成は来春を予定。800ページを超える分量。わたしとしても思い切り挑戦してみたい内容なので、版元に迷惑をお掛けしないように、全力投球しようと心を期している。読者諸氏はもう少しお待ちください。

(たての・あきら)


 

※1 舘野晳 ( たての・あきら ) 1935年中国大連生まれ、法政大学経済学部卒。
自由寄稿家、韓国語翻訳家。2001年韓国文化観光部長官より「出版文化功労賞」を授与される。
『韓国式発想法』(NHK生活人新書)、『36人の日本人 韓国・朝鮮へのまなざし』(明石書店)ほか著訳書籍多数。
『出版ニュース』(毎下旬号)に「海外出版レポート・韓国」を連載中。